小田急サザンタワー アーバンルームからの眺望
お彼岸である。
両親が眠る鎌倉霊園には行けないが心の中で手を合わせている。
父・昇二は大正3年生まれ。
出身は千葉県安房郡鋸南町保田。
男4人兄弟の長男で家を継がず故郷を出た。
兄にあたる昇一氏がいたが早くに亡くなったらしい。
実家は米を中心とした万屋(よろずや)で屋号を末広屋という。
現在は叔母(四男の嫁)が細々と店をやっているはず。
母・とき代は大正14年生まれ。
出身は品川区東大井。
男、女、男の3人兄弟。
実家は「魚六」という魚屋を営んでいた。
店はとうの昔にたたんだが、叔母が家を守っている。
父母は戦後、誰かの仲介で見合いをし結婚した。
昭和26年に兄、昭和30年に私をもうけた。
兄の前に死産(女の子)を経験している。
長女が健康に生まれていたら私はこの世に存在しなかった
可能性が高い。
父は日本鋼管(現JFE)に勤務し、55歳で定年退職した後も
別の会社で65歳まで働いた。
酒・たばこ・ギャンブルをやらない典型的な真面目人間であった。
我々子供にはとても厳しく、頑固な人だった。
私の真面目さ、頑(かたく)なさは父から受け継いだものである。
母はひたすら優しかった。
反面、ストレスを頂点まで貯めると激しく爆発させるという
感情の起伏が大きい人でもあった。
夫婦ケンカすると泣きながら蒲田の家を出ていった。
大井町の実家へ行って御祖母さんと会って、落ち着くと
戻ってくるのがいつものパターンであった。
喜怒哀楽が激しい私の気質は母から来ている。
父母はとても質素な暮らしを信条としていた。
両親に限らず昔の日本人は平均的に貧乏だったから、モノを
大切にし贅沢はしなかった(できなかった)と思う。
高度成長のおこぼれに預かり、家に家電製品が増えていく喜びは
味わえたと思う。
育ててくれたことに感謝し、一日一日を大切に生きていくつもりだ。