2007年6月30日土曜日

1Q終了    2007.6.30

<写真>  

消えていくもの -電話ボックス-

撮影   6月23日 8:58






6月度も昨日で終了した。
今期の前半3ヶ月、第一四半期(1Q)が終わったことになる。


「企業のグローバル化」ということが言われだして久しい。
目に見える形では、活動領域を国内に限定せず海外で生産・販売
サービス活動を行うことを指しているが、「企業のグローバル化」は
それだけを意味しているわけではない。
そもそも海外での企業活動は今に始まったことではなく、かなり従来から
行われていたことである。


「企業のグローバル化」という場合、海外の投資家にも評価・判断できる
ように、日本でしか通用しないローカルルールの会計方式ではなく、
米国の会計基準を採用しましょうということを意味する場合が多いようだ。
私も詳しいことはわからないが、業績公開スパンを3ヶ月単位で行うことも
そのひとつに含まれる。


私の勤める会社も数年前から採用するようになり、決算発表を3ヶ月単位で
行うようになっている。
営業部門でも従来は月単位/半期(半年)単位/年間単位での業績把握
だったのが、最近は3ヶ月単位も浸透しつつある。

米英では3ヶ月は1年の四分の一だから、Quarter (Q)と表現する。

私の勤務する会社においてはこうなる。

1Q   4月~6月
2Q   7月~9月
3Q   10月~12月
4Q   1月~3月 

流通業界は2月決算が多いから 1Qは3月~5月を指すことになる。
セブンアイ・ホールディングスの1Qは予想以上の利益を計上した、と
報道されたりする。 


私の従事する部門は大学が顧客であり、顧客層としては大手に属する。
大手の場合、大学に限らず年度会計で運営しており
物品・サービスの導入にあたっては

   導入検討 → 次年度の予算化作業 → 次年度にて購入 

というプロセスを踏むのが普通だ。
欲しいからすぐ導入します、という訳にはいかないのである。
販売する側からすれば、瞬発力を発揮しづらい市場ともいえる。


そうした市場を担当する私達にとって、1Q,2Qでの評価単位は大歓迎である。
単月だけを見つめられて評価判断されても困るし、半年単位でも
逆に長すぎる。3ヶ月、Quarter が最適なのである。


1Qは予定通り(予定以上)で推移することができ、つかの間の満足感を
味わっている。しかし、この満足感は長くは続かないこともわかっている。
当たり前の話だが、次の Quarter が来週から始まるのだ。
油断している余裕はない。
業績責任はその役割から外れるまでエンドレスで続く。


それでも今日と明日くらいは、自分に休息を与えよう。
わずかな時間であっても、今だけはこの小さな喜びに浸っていたい。
心底、そう思うのである。

2007年6月27日水曜日

業績責任     2007.6.27


<写真>
雨雲に煙るランドマークタワー
撮影 6月26日 7:19




梅雨のようで梅雨でないような、はっきりしない天気が続いている。
昨日、今日と二日続けて、汗ばむ陽気だった。
汗かきの私はタオル持参での出勤である。

女性下着販売会社・シャルレの代表執行役社長・三屋裕子氏が
創業家一族から社長解任動議を突きつけられた。
さきほどのニュースで本日、株主総会で解任されたことを知る。
業績不振がその理由と報道されている。

女子バレーボール界のスターであった彼女が、創業家(林一族)に
請われてシャルレの社長に就任したのは3年前のことだ。
私は二重の意味でこのニュースに関心があった。
ひとつは、私がかつて在籍した神戸の現地法人の顧客だったこと。
当時は収益の高い、地場優良企業という評判だった。
もうひとつは、バレー界から転身して会社経営ができるのかという
疑問からであった。

私は三屋氏の仕事ぶりや経営能力は知るよしもない。
厳しいスポーツ界で成功した彼女のことだから、もちろん
全力を尽くしただろうことは容易に想像がつく。それも人一倍。

こうなった今、私が思うのはただ一点。
三屋裕子氏も誰も彼も、責任者は等しく業績責任から逃れる事は
できないという事実だ。
考えてみればマクドナルドの店長も、ファミレスの店長も、ドトールや
スタバの店長も、およそ企業のフロアマネージャーは一人の例外なく
業績責任と日々戦っている。
宝石店の店長も、イトーヨーカ堂の店長も、誰も彼も一人残らず。
プロ野球の監督、プロ・サッカーの監督などは、さらに厳しい。
塾経営者、講師陣も。
世の中の責任者は皆、終わりのない重圧と格闘している。

三屋氏くらい有名になると、就任した時が晴れやかなだけに
解任時の落差が大きく、その心中察するに余りある。
厳しいけれど、皆、「明日は我が身」である。
プレッシャーに負けない精神力が求められるし、プレッシャーを
上手にかわすコツと努力も必要だろう。
私が休日に散歩したりブログを書くのもその意味合いが強い。
三屋氏ほどのプレッシャーはないけれど。

「人生は勝者には楽しく、敗者には悲惨な道である。」 
                   (大塚商会 大塚実氏)
今夜も、この言葉を噛み締める。

追伸

唯一のおめでたい例外は公務員だ。
マスコミを騒がしている社会保険庁のずさんな仕事ぶりが代表例だ。
役所の外郭団体も、お気楽そのものでコメントするのも馬鹿馬鹿しくなる。
住む世界が違うのである。

2007年6月24日日曜日

ボクシング    2007.6.24

小学生の頃から今に至るまで、ボクシング観戦には強い興味がある。


ボクシングが好きになったきっかけは、ファイティング原田
エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界バンタム級チャンピオンに
なったことだったと思う。
記録をひもとくと1965年5月18日のことで、
当時私は小学校四年生であった。


ハワイ出身で日系3世の藤猛(ふじ たけし)も短命だったが
破壊的な強打で人気が高かった。
勝利インタビューでの「オカヤマのおばあちゃん」というコメントが
流行語になったのを覚えている人も多いはずだ。


無名の西城正三がフェザー級王座についたのは
1968年9月27日。(中学一年)
彼が異色だったのはその端正なマスクに加えて、日本人ボクサー
で初めて海外で世界タイトルを取ったことだ。
ノンタイトル戦でラウル・ロハスを破ってチャンスをつかみ、
その勢いでベルトまで取ってしまった。
クロフォードとの防衛戦では初回にダウンを奪われたものの、
その後挽回して勝っている。
防御面に不安はあったが、軽快なフットワークとチャンス時の
ラッシュを見て、チャンピオンになるだけのことはあると私は
納得したものである。
ファイティング原田との対戦をファンはかなり望んだが実現する
ことはなかった。
私には原田側が対戦を避けているように感じられた。
もし負けたら、彼が築き上げた名声に傷がつくのを恐れたのでは
ないかと今でも思っている。


中学生の頃(1968-1970)日本のボクシング界は黄金時代と呼ばれた。
大場政夫沼田義明小林弘柴田国明などのスターが活躍した。


一方、海の向こうでは、カシアス・クレイ(後のモハメッド・アリ)が
ベトナム戦争への徴兵拒否で話題になっていた。
アリのいない間にチャンピオンに君臨したジョー・フレイザーと、
カムバックしたアリの対戦は私の関心を掻き立ててやまなかった。
この対戦は1970年に実現し、結局、脂の乗ったジョー・フレイザーが
ブランクの長いアリに判定勝ちして決着した。
(その後、この2人は二度対戦して今度はアリが
二度とも判定勝ちしている)


当時のヘビー級はビック・イベントに事欠かなかった。
チャンピオン ジョー・フレイザーと、メキシコ・オリンピック(1968年)の
ヘビー級金メダリスト ジョージ・フォアマンの対決が待っていた。
1973年のことである。


当時、高校2年生だった私は秋葉原の電気店でこの試合を観た。
なぜ秋葉原にいたのかは覚えていない。
待望の対戦であったが、ジョー・フレイザーがわずか2ラウンドで
フォアマンの強打の前にマットに沈んだのは衝撃的だった。
誰を出してもフォアマンに適(かな)う相手はいないと感じた
ものである。


そのフォアマンをアリが破る”奇跡”を起こすのは1974年。
これだからボクシング観戦はやめられない。


大好きなボクシングだが、最近、K-1などの格闘技人気に押され気味だ。
テレビ中継もめっきり少なくなってしまった。
そのことを私は大変残念に思っている。

2007年6月23日土曜日

写真集      2007.6.23

写真①   銀座の夕暮  撮影 6月19日 19:07


写真②    愛する散歩道  撮影 6月23日 7:41

写真③   青い空と白い雲  撮影 6月23日 7:58

写真④   鮮やかに咲くあじさいの花   撮影6月23日 8:19

写真⑤   野球場  撮影6月23日 8:47

2007年6月20日水曜日

会社は誰のもの?   2007.6.20


写真    

東海大学湘南キャンパス
撮影 6月20日 10:48




企業の敵対的買収が日常的になってきた感がある。


ライブドア  to  ニッポン放送
楽天  to  TBS
村上ファンド  to  阪神電鉄
スティール・パートナーズ to 明星食品
スティール・パートナーズ to サッポロビール
スティール・パートナーズ to ブルドックソース


明星食品は日清食品の傘下に入り終結したが、その過程で
スティール・パートナーズ(以下、盗賊S社)は高くなった明星食品株を
売り抜けて、まんまと巨額の富を得た。
私はこうした悪質な投資ファンドが跋扈(ばっこ)するたびに、
資本主義は皮肉なものだと痛感する。
資金さえあれば合法的に株の売り抜けができてしまうのだ。
こんなことがいつまでも許されてよいはずがない。


悪人どもの手口は共通している。

①狙いの会社の株を買い増ししていき、或る日突然「経営に参加したい
のでさらに株を買い集めます」と宣言。 
狙いの会社にプレッシャーをかける。 
大量取得する方法としてTOB(公開買い付け)がある。 
TOBとは、「A社の株をお持ちの皆さん! 私達は今なら200円のA社株を
400円で買いますよ。 売りませんか?!」と言って買い集める方法である。
A社株を持つ人にとっては高く売れるから、魅力ある提案になる。


②狙われた会社は投資ファンドに買われるよりも同業他社に吸収・合併された
ほうがマシと考え ホワイトナイト(お助け会社)を求める。 
サッポロにはアサヒがホワイトナイトになるのでは、と報道された。


③ホワイトナイトは「私どもにA社株を売ってくれるなら、盗賊S社よりも高い
500円で買いますよ」と宣言し A社株を集めてA社を傘下に治めることになる。
 その過程でA社株をたくさん持つ盗賊S社も500円で売るから、結局、
盗賊S社は儲かって笑いが止まらない 。


狙われた会社にしてみたら、将棋で言うところの王手をかけられたも
同然である。
盗賊に買われるか、ホワイトナイトに買われるかの二つにひとつだ。
私は遠からず悪質投資ファンドには天罰が下される、と確信している。

ライブドアと村上ファンドは日本政府の手により放逐された。
世の中に付加価値を提供しない恫喝的手法のマネーゲーム。
それで富を蓄えることが許される社会ではいけない。
盗賊たちは「合法的だ」と言うのだろうがそれは間違っている。
悪人どもの悪知恵に法律が追いついていないだけだ。



遠からず、必ず法は整備されると思う。



こうした盗賊から会社を守る方法。
①自社株を盗賊が買えないようにする。
上場廃止する会社が出てきているのはそのためである。

②高い業績を維持して自社株価を高くし、盗賊が「高すぎて買えねえや」と
思わす。

③市中株を買い戻して自社保有比率を高めておく。



悪人達は「企業は株主のもの」と主張する。
一見、その通りと考えがちだが私は明らかに間違っていると思う。
企業は株主だけのものではない

その会社を支持しユーザーとなっている顧客のものでもある。
その顧客に献身的に奉仕する従業員のものでもある。
そうした従業員を管理・監督する経営陣のものでもある。
そして、スポンサーである株主のものでもある。

これが正しい。


人生、金だけにあらず。
企業もしかり。
私のこの信念に揺らぎはない。

2007年6月16日土曜日

水虫    2007.6.16

水虫の唄      作詞:山田進一

どんなにどんなに 離れていても
僕は君を 忘れはしない
夏になると 想い出す
君と歩いた あの渚




二週間くらい前から突然、足指の水虫が悪化しだした。
指と指の間の皮膚が赤くただれ、じくじくと痛かゆくなってきた。
このまま放置しておくとばい菌が入って危険かなと思い、今朝
皮膚科の門をたたいた。


土曜日のせいだろうか。
朝一番に行ったのだが、待ち順番が既に13番目だったのには
驚いた。診療開始時間前なのに13番目である。
これだけの患者が押しかけるこの皮膚科は随分と儲かるだろうな、
と感心した。


小学生の頃、蓮沼の中井皮膚科にはちょくちょく通っていた。
注射をされることもないし、治療自体が怖いものではないので
子供心に結構おもしろがって通っていた。
通院目的はいつも魚の目と水虫だった。


魚の目は貼り薬で皮膚をふやかして、ナイフで削る治療。
水虫は半球状のライト(紫色の光線)で患部を照射したあと
液状の塗り薬を塗ってもらう。
これがくすぐったくて気持ちよく好きだった。


魚の目も水虫も根気のいる治療なので、結局完治した記憶がない。
そもそも完治させる気持ちもなかったと思う。
皮膚科に通うこと自体が一種の楽しみだったのである。


現代の皮膚科治療は40年前のそれとは全く異なるものだった。
まず、爪の断片をピンセットで剥がして、顕微鏡で診断する。
いきなり塗り薬を塗るような事はしない。
私の場合、爪自体が水虫菌(白癬菌 はくせんきん という)に感染していた。


①1日1回、ラミシールという錠剤を飲む。(28日分)
②アセチロール軟膏を1日数回塗る。
③赤くただれた部分にグリメサゾン軟膏/亜鉛華単軟膏を塗る

これが処方である。
まさか皮膚科で飲み薬を服用されるとは思わなかった。
効いてくると爪自体がきれいになるらしい。
完治まで半年は覚悟しなくてはならない。


仕事中は革靴から逃れられないから、どうしても水虫になりやすい。
私は今回、徹底的にこの水虫を治療することに決めた。


生きるということはコストがかかるものである。

2007年6月14日木曜日

入梅(つゆいり)    2007.6.14


天気予報通りに今日、関東地方は梅雨入りしたようだ。
シトシト、と形容する以上に、かなりの量の雨が今も降っている。
草木の成長(二酸化炭素を光合成で酸素に換えてくれる)と、
首都圏の水がめには恵みの雨といえるだろう。
この時期の雨は、適量が降ってもらわないと困るのである。
うっとうしい、などと言っている場合ではない。


ところで、雨と音楽とは切っても切れない関係にある。
昔から雨は格好の歌詞題材として、多くの名曲を生んできた。
以下に私の好きな”雨”歌を紹介する。


1.悲しき雨音     カスケーズ(Cascades)

原題は Rhythm of the Rain 。リリースは1963年。


2. 雨に濡れても   B.J.トーマス(BJ Thomas)

原題は Raindrops Keep Falling On My Head 。
リリースは1970年。
この歌を聴くと御園中学3年時を思い出さずにいられない。
きれいなメロディである。

3.雨に消えた初恋  ザ・カウシルズ(The Cowsills)

原題は The Rain, The Park And Other Things 。
リリースは1967年。この曲も名曲だ。
大橋巨泉、星加ルミ子がさかんに「牛(Cow)も知ってる
カウシルズ」と言っていたのがなつかしい。

4.雨の日と月曜日は  カーペンターズ(Carpenters)

原題はRainy Days And Mondays 。
リリースは1972年。

5.レイン         ビートルズ

ジョン・レノンの太いボーカルと、ポールのベースギターが
かなり脂っこい。
英国に旅行して、かの国の雨が日本のとは違うことを知った。
突然降り出して、すぐやむのである。

6.雨           三善英史

1972年リリース。三善はクネクネしていて少しカマっぽかったが
歌は良かった。

作詞:千家和也

道行く人は誰一人も 見向きもしない
恋はいつの日も 捧げるものだから
じっと耐えるのが つとめと信じてる

7.雨のウエンズデイ   大瀧詠一


作詞:松本隆

壊れかけたワーゲンの
ボンネットに腰かけて
何か少し喋りなよ
静かすぎるから
海が見たいわって
言い出したのは君の方さ
降る雨は菫色(すみれいろ)
Tシャツも濡れたまま

ニクい詞を書く人がいたものである。脱帽。

8.バチェラーガール    大瀧詠一

この曲も作詞は松本隆。
なんとまぁ、素晴らしい詞を書く人だろう。
失恋ソングである。
稲垣潤一も歌った。

作詞:松本隆

雨は壊れたピアノさ
心は乱れたメロディ
マイ バチェラーガール



自然の美は花鳥風月にある、と昔の人は言った。
雨もまた人を詩人にさせるのである。

2007年6月10日日曜日

いつも音楽とともに生きてきた  大瀧詠一      2007.6.10


私が音楽との関わりあいを語るときに、大瀧詠一
はずすことができない存在だろう。

彼の豊かな才能に初めて触れたのは23歳の頃。社会人1年目の札幌においてである。(1978年)当時、高校時代の同級生 H.K が北大生4年で在学しており、仕事の合い間をぬってちょくちょく一緒に遊んでいた。H.K から教えてもらったアルバムが「NIAGARA CALENDER '78」だった。

1月から12月まで計12曲が収録されたアルバムを聴いて、音楽センス・ユーモアセンスにたちまち魅了された。これはすごいぞ本物だ、と思った。

SIDE A
1月  Rock'n Roll お年玉
2月  Blue Valentine Day
3月  お花見メレンゲ
4月  Baseball Crazy
5月  五月雨
6月  青空のように

SIDE B
7月  泳げカナヅチ君
8月  真夏の夜の夢
9月  名月赤坂マンション
10月 座 読書
11月 想い出は霧の中
12月 クリスマス音頭

これら曲の中で私に「すごい、本物だ」と思わせたのは、「Blue Valentine Day
青空のように」、「真夏の夜の夢」「座 読書」である。
H.K は「座 読書」の歌詞中の「・・・落ちる餅・・・」というフレーズがお気に入りだった。
真夏の夜の夢」を聴いていたファンなら、後の名盤「A LONG VACATION」の
大ヒットは当然のこととして受け止めることができたはずだ。

SIDE A
君は天然色
Velvet Motel
カナリア諸島にて
Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語
我が心のピンボール
SIDE B
雨のウェンズデイ
スピーチ・バルーン
恋するカレン
FUN×4
さらばシベリア鉄道

この名盤によって大瀧詠一は一気に有名になり、伝説になった。
おそらく巨額の印税を手にしたことであろう。
その後の彼は、多くの歌手へ曲を提供してヒットを量産する。

風立ちぬ    松田聖子
冬のリヴィエラ 森進一
熱き心に    小林旭
夢で逢えたら  吉田美奈子

残念なことに、最近は彼の名前を聞くことも少なくなってしまった。
10年前、「幸せの結末」で復活して喜んだのもつかの間、また
「勉強家」生活へ戻ってしまったのだろうか。
2011年に復活するとの噂があり、先の楽しみとして残しておきたい。

素晴らしきかな この才能。 大瀧詠一は本物だ。  

2007年6月9日土曜日

クールビズ   2007.6.9


関東地方は来週末にも梅雨入り、と報道された。
これから約1ヶ月は雨模様の日々が続くことになる。


職場では6月1日からクールビズ期間に突入。
この制度も3年目を迎えた。意見を聞いてみると、男性社員は一人残らずクールビズを歓迎しているようだ。半袖・長袖問わず、ノーネクタイは首周りが楽で、しかも涼しい。
その代わり、事務所の冷房温度は28°C に設定され、省エネと地球温暖化抑制に貢献する。実際、半袖シャツでノーネクタイなら28°Cでも苦にならない。


実施1年目は顧客へ与える印象がどうなのか懸念されたが、政府主導に
よる国民運動のせいか、どの顧客からも好意を持って迎えて頂き
ほっとした。
もちろん、顧客訪問時は「クールビズ期間ですので失礼します」と
一言(ひとこと)お断りすることも忘れないようにしている。
ただし、さすがに冠婚葬祭だけはどんなに暑くともノーネクタイで行く
勇気はない。やはりTPOは大切だと思う。
まだ経験はないが、クレーム対応時も迷うところだ。
今の私なら、7 : 3 でノーネクタイと判断するだろう。
クレームの程度にもよるだろうが。


クールビズは2005年の夏、小泉内閣時代に始まった制度だ。
小泉内閣の功罪が語られる時、「格差」とか「中韓関係悪化」など
マイナス要素が挙げられやすい。
私は「功」の筆頭にクールビズを挙げる。
日本人男性会社員の夏を楽にさせ、能率をアップさせた功績は未来永劫
讃えられてよい。


政治、政権と言うと、判で押したように批判トークを展開する風潮が
この国にはある。
批判は言論の自由だし尊重するが、是々非々の精神は忘れたくない。
良いことを良いと言い、悪いことは悪いと言える判断力を持ちたいものだ。

2007年6月4日月曜日

いつも音楽とともに生きてきた   Liverpoolへの旅   2007.6.4  

今朝、通勤バスに揺られていたら突然思い出した。
そういえば9年前の今頃、英国を一人旅していたんだ、と。


1998年の5月最終週から6月第一週にかけて、私は勤続20年に
与えられた2週間の休暇を利用して、かねてからの夢であった
英国旅行へ出かけた。
それは、ビートルズを生んだLiverpoolへの旅である。
以下に、その記録を綴ってみたい。


◆期間  1998.5.24 ~ 6.5◆

5.24 London着。Victoria Station そばの B&B 泊。

5.25 日本人観光ガイドに案内されて London市内を巡回。
    もちろんAbbey Roadなど、ビートルズに関係するスポットに
    限定したもの。

5.26 会社の英国法人を訪問。日本人責任者に歓待される。
    THE WHITE HOUSE LONDON 泊。

5.27 再度、別ルートでの London市内巡回ツアーに参加。
    ビートルズ関連スポットであることは同じ。

5.28 特急に2時間揺られて Liverpool 入り。
    唯一の日本人公認ガイド阿部さんに市内案内してもらう。
    Penny LaneStrawberry Fields を訪ねる。
    とうとう来てしまった。現地 B&B 泊。

5.29 Liverpool二日目。港にあるビートルズ記念館を訪ねる。
    記念グッズを多数購入。

5.30 Cavern Club訪問。ここで出世する前のビートルズは
    夜な夜なライブを行っていた。ファンにとっての聖地。

5.31 London へ戻る。現地で人気のそっくりさんバンド
    Bootleg ライブを観る。
    THE WHITE HOUSE LONDON 泊。

6.1  南の観光地 Plymouth(プリマス)へ移動する。
    Londonから特急で3時間。現地のB&B泊。

6.2  レンタカーで Land's Endを訪れる。
    オーストラリアからのヒッチハイカーと同行。

6.3 Plymouth 市内巡回。

6.4  London へ戻る。日本料理屋でラーメン・餃子を
    食べる。宿も在英日本人経営のB&B泊。

6.5  ヒースロー空港から日本へ。



今こうして振り返ってみても、実に楽しい旅だった。
子供の頃から大好きだったビートルズ。彼らの故郷をこれ以上
ないくらい、細かく訪ねることができた充実感は実に大きいものが
あった。
あれから早いものでもう9年が経つ。
願わくば、生きているうちにもう一度訪ねてみたい。


今度はデジカメを持って。(前回は使い捨てカメラだった)

2007年6月3日日曜日

私の愛する散歩道      バラが咲いた

「バラが咲いた」   散歩途中の公園に咲くバラ  撮影 6月3日
必勝祈願    近所の神社に神頼み  撮影 6月3日

あじさい    これからの季節の主役  撮影 6月3日

雑木林    いつまでも残してほしい  撮影6月3日

日曜日の野球グラウンド   雲を見て夏が近いことを知る 撮影6月3日

火事場の馬鹿力     2007.6.3


月末、月初と続いた先週は珍しくハードな一週間となった。


5月度の売上計上をしくじってはならないという
意識がベースにあり緊張しながらも、片方ではヤマを迎えた大型商談に
勝ち抜くべく関係者と折衝・調整を続ける毎日となった。
すべてを完了した水曜日(5月30日)の晩は
気持が昂(たか)ぶっているのが自分でもわかるほどだった。
いわゆるハイテンション状態である。


しかし、この年齢になるとやはり無理は続かない。
翌・木曜日(5月31日)の午後から注意が散漫になり、これ以上続けても能率は
上がらないと悟り、仕事をやめてさっさと帰宅した。
夕食を終えソファに横たわると、あっという間に寝入ってしまっていた。
翌翌・金曜日(6月1日)も疲れを持ち越しているのがわかった。


そんな疲労からようやく回復したな、と感じたのは今朝である。
自宅近くの小さな神社に商談成功を祈念したあと、いつもの散歩道を歩いてきた。
歩きながらあれこれ思いをめぐらせる。
なかなかピリっとしない大型商談関係者に厳しく接したことへの反省とともに、
同じ轍を踏まないための体制、方策を考える。
テンションが下がって冷静になり、この一週間を振り返る余裕が出たのだ。


動物は獲物を前にしてテンションを上げる。
外敵を前にしても同様だ。
それはいつもの能力以上に力を発揮するため神から授かった本能であろう。


先週の私はそんな状態にあったと思えば納得できる。
集中力が異常に高まり、意識が研ぎ澄まされていた。
しかしそれは非常時であるから、長くは続かない。
それでも目先の問題解決には不可欠な力である。


昔の人はこれを火事場の馬鹿力と呼んだ。
先週、私にはこの力が天から降りてきたのである。